今週は私の活動期?なのか、毎日バタバタ忙しい(笑)。自分で作ったスケジュールなのだけれど・・・(笑)。
JR奈良線に乗り上狛(かみこま)という駅、京都府の南、奈良に近い駅に降り、行ってみたいと思っていた「山城郷土資料館」に行って来た。スマホを持って道ナビをしても、ここは歩きで行くところではなさそうな、誰一人歩いている人のいない、私達だけしか歩いていない、そんな車がビュンビュン行き交う道路脇の歩道をしばらく歩いた。
(久津川車塚古墳(城陽市)出土の長持形棺 この石棺も奈良線敷設工事の際に発見されたという。)
そう、歩きでは駅から20分と書いてあったようだけれど、私達はノロノロ歩いていたので、その倍くらいの時間がかかったと思う。汗(;^_^Aを拭きふきようやく目的地に到着した時はほっとした。
(恭仁京跡)
(こんな大極殿が建っていた)
大概こんな博物館はひっそりしているのが普通なのだけれど、ガヤガヤ人声がして団体客が来ているのに驚いた。地元の町内グループであったようだ。ガヤガヤは5分くらいで出発の時間が来たらしく、潮が引くようにしずかになり、私達二人だけの見学者になり、ほっとした。これで落ち着いて見ることが出来ると・・・(笑)。ただしカメラはあまり写せない。
(礎石が点在)
ボランティアの方が一つひとつ説明。この辺りは740年に、聖武天皇が平城京からここ恭仁京(くにきょう)に都を移し、恭仁京(くにきょう)跡という史跡がある。聖武天皇のこの遷都は744年までの4年の短い間でしかなかった。平行して造られていた紫香楽宮や難波宮など宮も造られたが745年には再び平城京に遷都したという。
(ここに七重の塔が建っていた)
(こんな感じの塔)
またこの資料館には、古墳時代初期の前方後円墳、椿井(つばい)大塚山古墳から発掘された物もレプリカではあるけれど展示してある。なんでも三角縁神獣鏡が33面以上も出たことで有名になった。この古墳は、墳丘の大部分が山の自然地形を利用しているのというので、やはり古い古墳だということが分かるわけなのだが、卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳によく似ているという。私達は展示してある銅鏡をゆっくり見学した。
(海住山寺 本堂 中に十一面観音が安置されている )
椿井(つばい)大塚山古墳は明治時代に奈良線の線路を引いたとき、今とは違いまだ文化財などの重要性より文明開化が勝っていたのか、古墳の後円部が奈良線によって分断されているという。奈良線に乗っている時にどの辺りだろうと見ていたけれど、一瞬に通り過ぎるので、分からなかった。
館内にお昼の時報が鳴ったので、さてさてお昼はどうしよう、と全くお店も無かった道中が頭に浮かんできたので、「どこか食べる所ありますか?タクシー呼べますか?」とボランティア氏に尋ねると、ボランティア氏が「もう帰りますから、一緒に乗せてあげます」と親切な言葉を返してくださった。
美味しい採りたて有機栽培のランチレストランに寄って下さり、恭仁京(くにきょう)跡など寄ってあげますよと嬉しいお申し出をいただき、膝痛持ちの私には「車」という魅力的過ぎるお話しに飛びつく思いを抑えながら、「よろしいんですか?ありがとうございます」と丁寧にお受けして、話がトントンとまとまったのでした。
(中はカメラで写せないのでパンフレットから)
思いがけなく恭仁京跡のみならず、海住山寺(かいじゅうせんじ)にまで案内していただき、ご本尊の十一面観音や五重塔なども見学出来、本当に嬉しいことになった。海住山寺は細い道をクネクネ曲がりながら登っていくので、とてもとても歩いて行けるところではないので、本当にありがたかった。
(高麗寺跡)
海住山寺は735年、聖武天皇が良弁僧正に一宇を建てさせ十一面観音を安置したのに始まる真言宗の寺である。一旦廃れた寺を鎌倉時代に貞慶上人が再興された。瓶原(みかのはら)を見渡せる高台にあり、春秋の季節なら、さらに綺麗であろうと思われるたたずまいであった。ここで御朱印をもらった。
(高麗寺跡では整備作業をしていた)
恭仁京は廃された後、国分寺をその場所に建てられた。礎石から7重の塔が建っていたのではと言われている。1300年前に聖武天皇が見たであろう同じ眺めを、その場所に立って見ている自分、歴史の中にひたるひと時が心地よい。
(行く道すがらの花 マルバルコウソウ)
日頃の心がけがいいのか、お天気も曇りがちだが雨は降らず、見ず知らずの者なのに親切を受け、何だか心楽しく帰りの電車に乗ったのだった。
(エノコログサ)
(葛の花)