いいお天気でした。お天気がいいので、車でふらふら走ってみました。来年の大河ドラマは「麒麟が来る」というのだそうです。明智光秀が主人公のようです。明智光秀と言えば主殺しというイメージ、あまり良い印象はありませんが、これまでも信長の時代が描かれると必ず出て来て様々の性格に描かれていました。
(谷性寺 亀岡市)
光秀の首塚があるという亀岡市の谷性寺に行きました。初めて行ったのですが、こじんまりとした小さなお寺です。ちょうどご住職さんが落ち葉を掃除していらしたのですが、手をとめてしばしお話しを伺ったりしました。
お話によりますと、この寺は元は平安時代に後ろの山の上に建てられていたものとか。しかし、江戸時代落雷のため火災に遭い、山の下に建て替えたとか。火災のため古文書の類など全てが焼失したので、定かなことは分からないということでした。光秀は16世紀に生きた人ですけれど、その昔、平安時代にも清涼殿に落雷したり、雷による火災の話はよく耳にしますね。ご住職さんはこのお寺に来て八年とのことでした。
(光秀の首塚)
明智家の桔梗の紋が本堂の前の幕にもありました。夏桔梗が七月頃花盛りになり、この寺は桔梗の里とも言われているようです。庭に大きな枝垂れ桜が三本ありました。さぞ桜の時分にはキレイだろうなぁと思いました。来年は見に行きましょう。
(明智門)
光秀が建てたその当時は亀山城と言った亀岡城ですが、今はありません。明治時代に市町村に払い下げられ、大正時代に宗教法人の大本教が購入し、今に至っているのです。大本教の弾圧に伴うものなのか、1936年頃政府により爆破し破壊されたという。
現在も城跡には光秀が築城した当時の石垣など残っていますが、城址は宗教法人の物となっています。これは珍しいことですね。大抵市の物になっていて、城址公園や、県庁などがその辺りに建っていたりするものなのですけどねぇ。
光秀は丹波攻略の拠点として亀岡(当時は亀山)にいたわけですが、何を思ってか1582年の6月21日に、日本史で必ず習う「本能寺の変」を起こし、明智越えと言われる保津町の山越えをして京都市内に入り、本能寺に宿泊していた信長の寝こみを襲ったのでしたね。
(鐘楼)
光秀の足跡を残すのは、長岡京市や福知山市もあります。そちらもこれから賑わうのかもしれないですね。そちらも行ってみたいですね。
谷性寺の裏の方に、篠葉神社というのがこれまたひっそりとありました。大きな樹木の中にあるその神社は、清和源氏の始祖となる貞純親王により、延喜四年平安時代に創建されたものという。この神社は光秀の丹波攻略の時に焼失したという。その後再建されたのだけれど、隣に光秀の首塚もあると思うと、何だか歴史の不思議さというか、面白さを思います。
再建はしていますけれども、その歴史は随分古い神社です。うっそうとした樹木の中にあって、小さいですが趣があります。
もうススキが銀色に光っていました。セイタカアワダチ草も。
桔梗の時期でも桜の時期でもなく、いいお天気に誰もいなくてのんびり見学できました。