友達の書展を見に行って来た。何十年も研鑽を積んでいて、大きな賞も何回も受賞している書道のお師匠さんだ。静かな会場に入ると、お弟子さん達のそれぞれが気持ちを込めて書いたであろう軸が、ずらりと並んでいた。もちろんお師匠さんの雄大な書も。
書が上手い人は羨ましい。受付で名前を書くのでさえ、あちこちに自由に飛び跳ねる私の文字には恥ずかしいしかない。しかも大きく書いてしまう。けれどこれでこの年まで来たのだから、矯正するのもなかなかに難しいだろうと・・・このことに関しては弱気になる私。普段は、何歳からでも思ったその時が、「遅い」ということはない、などとポジティブ思考の私なのに(笑)。
実際書とかをやるには、落ち着いてじっくりしなければならない。あー私に無い物、それは落ち着き(笑)。パッチをやるにはじっとして、ひたすら何時間も、何年もかけて針目を作り出すのは出来るのだけど、落ち着きとは違うものみたいな気がする。
(今年の干支 犬をもらった)
主婦の仕事の家事は、八方に気を巡らせないと回って行かない仕事だ。調理をしながら頃合いをみてお風呂を炊いたり、調理しながらかたずけ物や洗い物をしたり、他の事をしていたとしても、三時半ころまでには洗濯物を取り入れるとか、ひとつのことだけをじっくりしているということは無い。わさわさとしていることが習い性になってしまっている。集中力と落ち着きがないのを、そういうことのせいにしてしまうのも可笑しいが、多少はあると思う。
(セロジネが咲いた)
書を見た後はいつもそれを思う。書もやりたい、きれいな文字が書けたらと思うけれど、いやいや向いていないといつも思う(笑)。友達のお師匠さんも性格を考えると、そのギャップが不思議な感じの人だけれど、書への熱情というものを持ち続けているのだと思う。
手紙をもらうことは少なくなった時代だけれど、文字のきれいな人から手紙をもらうと、ほれぼれする。どんな綺麗な人だろう、どんな賢い人だろうと、想像してしまう。だからその逆も、モチロン有りになる。その昔、ワープロというのが出た時には、私には救世主のようであった(笑)。今やラインやメールの時代、ますます文字を書くことは少なくなる時代なのだが、自分の文字とは一生付き合って行かねばならない(笑)。
(この間もらつた花束が開き切って)
(うっすら雪の朝 ヒヨドリがリンゴを食べている)