台風前の一日、縄文土器の特別展「火焔型土器と西の縄文」という展示が、京大博物館であったので行って来た。火焔型縄文土器は、約五千年前頃のもので、新潟県辺りに主に沢山出土する土器の器で、写真などでも一度は見たことがあると思う。本物の火焔型土器が見れるチャンスなので、イソイソと出かけた。
(深型鉢 火焔型土器)
火焔型縄文土器は、縄文土器といいながらも、縄目模様はないという。その器の面に、粘土紐を貼り付けて、竹管などで凸凹をつけ、渦巻き文様やS字文様をうみだしていくものだという。そう言われて見れば確かに縄目模様はついていない。
国宝の深鉢形土器 火焔型土器は十日町市の笹山遺跡から出土したもので、一番目立つところに置いてあった。カメラはフラッシュ無しならオッケーだったのだけど、何故かその調整がおかしくなり、国宝を写したのに良く映ってなかった。というわけでで、特別展の博物館図録からお見せしますね。
(国宝)
それにしても、なかなかに真似の出来そうにないデコラティブな形態は、一体何故だろうと思ってしまう。この火焔土器達は、全部煮炊きをする調理用の鍋だということが、焦げた部分や噴きこぼれの跡で分かっているのだとか。煮炊きの鍋にあんな凸凹した口部分などは、邪魔になりそうなものだけれど、現代的に考えると不思議なことに思える。
信濃川上流から中流にかけてが、火焔型土器の最盛期のものが集中しているという。そしてその期間は短いもので、縄文時代の中期中葉ごろの5300年から4800年前までの間の500年間という。そしてぱったりと縄文時代の中期後葉と同時に消えてしまったという。
(土偶)
なかなかに興味深い火焔型土器の歴史。力強さ、存在感の強い装飾過多とも思える器は、一体どういう人々が作ったのか、とても日本人の祖先とは思えないようなデザインだ。しかも限られた地域に多く出現しているということも、なんらかの歴史ドラマを感じてしまう。火焔型土器が造られていた縄文中期には、西日本では平板な土器が造られていて、全く全く違っていたようだ。
(常設展の埴輪)
ゆっくり回り、実際の火焔型土器の数々を見ることが出来て良かった。そして、アンケートを書いたら、展示図録写真の本を無料でいただく、という大盤振る舞いしてくれる博物館だった。立派な本なので、嬉しくなった。
博物館や美術館歩きは足が疲れるもの。お腹も減って来たので、受付嬢にどこか近くで美味しいとこないでしょうか、と尋ねると、京大の中にある「LaTour」というフレンチのレストランを勧めてくれた。行ってみると満席。しばらく待って食事をしたのだが、待った甲斐のある雰囲気よし、お味よしのラッキーなランチとなった。
帰りには、すぐ近くの知恩寺で、毎月15日にやっているという手作り市に寄り道した。沢山の人でいっぱいだった。